自分たちの言葉に懸け得るもの

 前記事、『「死ぬ死ぬ詐欺・まとめサイト」の卑劣さを考える』はとても反響が大きかった。今、記事を書いている10月6日午前0時30分現在、アクセス数が 1万3573回でコメント数が73回である。

 アクセス解析が出来るわけではないので推測でしかないが、2ちゃんねるからのアクセスがかなり多いのではないか。コメントにも、2ちゃんねらーを代弁するような意見が多かった。

 後段の内容は確かに分かりにくかったかもしれないが、少し寂しくなるのは、ここまで伝わらないものなのだろうか。re-present(リプレゼント)は「再現前」と訳されるが、「代表」「代弁」という意味もあるのだ。

 始めに1つ言っておきたいのは、あの記事は2ちゃんねる批判というわけではない、ということだ。ぼくがあの記事に元々つけたサブタイトルは

 「『インターネット』という再現前(リプレゼント)」

 だったが、それが示すとおり、あの記事はインターネット自体を批判しているのだ。(編集部注。編集後のサブタイトルは、「特定のネットワーク上でしか通用しない『真理』」)

 具体的な反響内容の検討に入ろう。

 まず、ぼくに対して「実際どうであるのかを取材していない」という批判があった。確かにぼくは取材をしていない。しかし、ぼくにはまず、募金活動の「どこに不明瞭な点があって、どこが疑問なのか」がよく理解できないのである。事務局側の説明のどこかに何か無理があるとは、ぼくにはまったく思えない。

 コメント欄に寄せられた疑問点を3つほど、可能な限り検討してみたいと思う。

 まず両親の年収。まとめサイトには「4000万円」とある。これはまったく根拠のない数字である。

 NHK職員の平均年収1100万円から推測した数字らしいが、しかしそれしても2人分の平均年収2200万円と比べ、1800万円も開きがあるのだ。推測にしても、あまりに開きすぎている。

 前記事と同じことを繰り返すが、彼らの中に誰1人としてNHKにおける給与水準の実態が分かる人などはいない。もちろんぼくも分からない。つまり、この「4000万円」を合理的な数字だとする根拠はどこにもない。

 断っておくが、年収に関してぼくに具体的な数字を求めるのはお門違いである。ぼくは言った通り分からない。しかし、普通に考えて1億円ほどの手術代金を捻出できるほど富裕な人というのは稀である。単なる団体職員ではまず無理だろうと思う。この場合、根拠を示すべきは、まず「簡単に捻出できるはずだ」と主張した側のはずだ。

 次に、両親の資産。結局、両親の所有する不動産は70坪足らずの持ち家で、1億円を捻出するには無理がある。それが分かったのは、ほかでもない、今はなぜか消えているが、まとめサイトの登記簿によってである。

 「ほかにも資産がある」と主張するなら、まず根拠を示すべきだし、それが推測でしかないなら単なる中傷である。

 第3に、会計報告をするべき、という意見。1カ月も経っていない始まったばかりの募金活動で、移植手術もなされたわけでもないのに、なぜ今、だれに会計報告すべきであるのか。情報公開を要求する主体は誰なのか。2ちゃんねらーだとでも言うのか。

 2ちゃんねるは市民活動ではないと思っていたので、そうだとすると意外である(一応断っておくが、もちろん、厭味である)。

 手術が終わり、救う会が解散する時点になって、会計報告をすべきだというならば分かる。しかし、ほとんど予算も使っていないであろう段階で会計報告する必要性は、まったく感じられない、少なくともぼくには。会計が緊急を要するというならば、その理由を根拠をあげて説明するべきであろう。

 上3つの他にも、コメント欄においても、「まとめサイト」においても、さまざまな「疑問」が提示されているが、しかし「さくらちゃんを救う会」のパブリックコメントに無理があるようにはやはり思えない。

 なるほど、穿った見方をすれば、いくらでもそれを疑ってみることは可能なはずだ。しかし、それをいくらやっても、何の根拠にもならないのは当たり前の話である。自分たちの疑問を解消しろ、と言っても、それが「穿った見方」にとどまる限り、単なるげすの勘繰りと片付けられるしかないのだ。

 総じて、コメント欄を見て感じたのは、他人の「説明責任」に厳しく、自分たちの「誹謗」や「行き過ぎ」に甘い、健全とは思えない姿勢である。とにかく、「問題提起をした」という満足感しかなく、あまり内容に関して意に介することはない。ゆえに、これほどまでに「疑問点」が稚拙なのだ。

 2ちゃんねらーにおいて大切なのは、おそらく「スキャンダルとしての真理」なのだろう。自分たちは物事の「その裏」が分かっていると言う自覚、自信、自惚れ――。それこそ「匿名掲示板」「ゴミ溜め」としてのプライドであり、アイデンティティなのではないか。

 しかし、ぼくは思う、そんなものは往々にして、役に立ったことはないと。分かっているつもりでも、彼らはその「スキャンダル」に賭けるものなんてない。薄っぺらいし、安い。彼らが暴いているつもりのタブーで、彼らにとって火の粉が降りかかるように危険なものは、ほとんどない。

 基本的に、彼らにとっての「危険」とはロールプレイ、ままごと遊びで風車をモンスターに見立てるようなものなのだ。いくら彼らがそれをモンスターだと思って突進していったところで、ぶつかって怪我をすることはあるかもしれないが、風車が襲ってくるはずはないのだ。

 とにかく、この問題には命が1つ懸かっている。しかし、批判者に懸かっているものは何1つない。疑惑をでっち上げ、「これで募金活動の信用が落ちたら、将来、心移植が必要な子どもが……」とマッチポンプで、“匿名のたくさんの命”を人質にする。やり方としてはあまりに卑劣だ。

 批判者たちがどれくらい、真剣に自分の正義を信じていようと、そのような卑怯なやり方を続ける限り、何1つ成し遂げられることなど無いだろう。

 ミシェル・フーコーの研究によると、古代ギリシャにおいて告発の場における真理の基準は、発話者がどれくらい自分の言葉に懸けられるかにあった。時として、それに命を懸けることすらあったという。

 まず、自分たちの言葉に何か懸けるものを見出すべきではないのか。少なくとも、安っぽいプライドを後生大事にし、こんな卑劣なことを続けるよりも、そちらのほうがよほど良いのだから。