この週刊誌がすごい78
22日、日曜日の夜11時半を回る頃から、この原稿を書き始めた。この連載も、早いもので80回近くになる。毎週、新聞広告や電車の中吊りで気になった記事を読んだり、楽しみにしている連載コラムを拾い読みしてきたが、最近、すぐにでも読んでみたいという記事に出会うことが少なくなってきた。
私は、週刊誌を含めた雑誌屋稼業を40年近く続けてきたから、少々のスクープでは、驚いたりしなくなっていることは確かだ。どんなにタイトルを大きくしても、扇情的な言葉を羅列しても、編集部の舞台裏が読めてしまうから、フンフンとタイトルを見ながら、薄ら笑いを浮かべてしまうことも多い。
だが、自分もやってきたからわかるのだが、毎週毎週、驚愕(きょうがく)スクープや耳目を引きつける記事を掲載できるはずはない。誇大で羊頭狗肉(ようとうくにく)なタイトルを付けるのは、新聞やテレビと違って、不特定多数のお客に、新聞や中吊りで注目してもらって、三百何十円かを払ってもらわなければ、成り立たないのが週刊誌を含めた雑誌の“宿命”なのだ。
確かに、女性誌や一部の雑誌の中には、販売収入よりも広告収入が上回るものもあるにはある。だが、ほとんどの雑誌は、売れてナンボなのだ。
われわれが現場にいた頃よく、「たかが週刊誌、されど週刊誌」と嘯(うそぶ)いていたものだ。読者は3回続けてだまされると週刊誌を買ってくれなくなる。だから、3回に1回は、これぞという記事を提供しなくてはいけないと、凄腕の編集長からいわれたものだ。
週刊誌を含めた雑誌を読む楽しみの一つに、「よくぞ、だましてくれた」と、手を叩きたくなるほどの見事なタイトルと、内容のかけ離れた記事に出会うことがある。
昔の演歌に、「どうせ私をだますなら、だまし続けてほしかった」という歌詞があるが、言葉巧みに誘って、幾ばくかの小銭を稼ぐのも、年期と言葉に対する感性と、多少の度胸は必要なのだ。
そうしたことも含めて、週刊誌をやっている人たちに、読者は何を求めているのか、どうしたら読者の琴線に触れる記事ができるのかを、もう一度原点に返って考えてもらいたい。そこからしか、週刊誌を含めた雑誌の厳冬期から抜け出すことはできないと思う。
原点はもう一つ。新聞、テレビ、そしてネットにもできないことを、雑誌がやっていくしかないのだ。
前置きが長くなったが、今週のテーマは「タブーに挑戦する」。新潮の「矢野絢也氏が証言した『公明党のタブー』政教一致」によれば、矢野元公明党委員長が、議員会館で、共産党を除く(なぜ、共産党は入らないのか?)野党の呼びかけに応じて、創価学会を相手取り、損害賠償を求める訴訟を起こしたことや、選挙になると、公明党の候補者たちは学会の施設を使い、多くの信者たちに無報酬で応援をしてもらっていることについて話したとある。そこには、国会議員73名、秘書やマスコミを含めると約200名が出席していた。
矢野氏が創価学会を訴えた理由は、「文藝春秋」に発表した手記を巡り、学会から、言論活動の中止や多額の寄付を強要され、それと同時に、誰だかわからない人間たちに、尾行され嫌がらせを受けたこと。3年間、要求通り、言論活動を中止したが、攻撃は止まなかったため、悩んだ末に、裁判で争うことにしたというのだ。
矢野氏は、1993年に政界を引退するまで、22年間にわたって公明党の書記長、委員長を務めた人間である。当然ながら、創価学会の暗部まで知り抜いていることは間違いない。その人間が、恩ある学会に弓を引くというのだから、マスメディアの話題をさらいそうなのではと、私などは思うのだが、そうではないようだ。新聞は、産経新聞が取り上げてはいるが、そう多くはない。東京読売新聞などは1本だけしかない。ほかの新聞も似たり寄ったりだ。
よくいわれることだが、大手新聞社は印刷所を自前でもっている。そこで、学会の機関誌である聖教新聞を印刷しているために、書きたくても書けないのだと。
それもうなずける、記事の少なさである。矢野氏にも、蓄財疑惑や学会のドブさらいをやってきたダーティーな部分があるのは事実であろう。しかし、長年タブーになってきた創価学会の暗部、中でも、「政教一致」があるのかどうか、あるとすれば、どういうことをやってきたのか、池田大作名誉会長の学会私物化はどこまで行われてきたのかなど、戦後史の重要な裏面が明らかになろうとしているのだ。
創価学会を信じることは何ら非難されることではない。だが、一宗教団体が政党を支配し、その公明党が与党として日本の政治を動かすまでになっていることは事実である。
選挙のときの学会ぐるみの支援活動や、当選した公明党議員は、池田氏にお礼を出すのが慣習となっているという「疑惑」について、矢野氏は、呼ばれれば国会でも証言するといっているのだ。
この、新聞はもちろんテレビなどでは知ることができない問題を、週刊誌はどこまで追及することができるのか。新潮ばかりに任せておかないで、競って、真実はどこにあるのかを取材し、知らせてほしいと思うのは、私だけではないはずだ。