重大犯罪者を収容する医療観察病棟設置で揺れる町
殺人、放火、強盗、女性暴行などの重大な罪を犯し、精神を患う人たちが大挙して近所に移住してくることになったら、あなたはどう思うだろうか?
これはフィクションではない。移住してくる場所は、東京都世田谷区上北沢。元犯人たちの多くは、ここにある都立松沢病院に数年にわたり入院。退院後は通院のために近所に住むことになる。静かな住宅街は揺れている。
上北沢町内会の反対署名運動
2007年11月、上北沢町内に1枚の回覧板がまわった。都議会議員議長あての署名を求める内容だ。以下に原文を掲載する。
現在、東京都は、松沢病院整備の一環として、心神喪失者医療観察法に基づく「医療観察病棟」の建設を進めています。この病棟は、心神喪失状態で殺人、放火、強盗、強姦、強制わいせつ、傷害などの重大事件を起こした精神障害者を治療するための病棟です。
医療観察病棟に入院した精神障害者は、原則として1年以内に退院して出身地に戻ることになっています。しかし、出身地の家族・親戚が受け入れない場合には当地域に居住し、再び同じような行為を繰り返すことがないとは言い切れないため、住民は不安を募らせています。
特に、何の落ち度もない幼い子供が見知らぬ男に刺殺されるような凶悪事件がしばしば報道されている現在、子を持つ親の不安は並大抵のものではありません。
私達は、安心して生活できる街づくりのために、本建設計画について、都との協議機関を設け、早急に地域安全対策を具体的検討すべきであると考えています。そして、地域の安全が保証されない限りこの建設計画に反対いたします。
上北沢町内には、約3,000世帯、6,000人が暮らしている。典型的な住宅街であり、事業所は少ない。この条件で、現在のところ約3,000名の署名を集めた。しかし、都議会に議題として取り上げてもらうためには1万人の署名をもって地元選出議員に訴える必要があると考え、いかにその数の署名を集めるかに心をくだいている。その先頭に立つ町内会長、新井貞次さんをたずねた。
「これまでに3回の説明会がありました。相手は東京都病院経営本部です。まず、この医療観察病棟の設置についての説明がありました。2003年に閣議決定され、2005年に施行された『心神耗弱等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律』(略称:医療観察法)に基づいて建設するものだということ。都立病院でありながら、国の予算によって建設される珍しい事例であること。基本的に麻薬を使用した犯罪以外の、重大犯罪の加害者で、精神を患っている人たちが来る。ということでした」
病棟は、2009年度中、つまり2010年の3月までにオープンする。病棟には二重トビラが設置され、24時間態勢で監視員がつくという説明があったそうだ。病床数は、オープン時こそ30床だが、次第に増えていく可能性は高いと新井さんは見ている。
またこの医療観察法の設立の経緯も説明された。2001年に発生した大阪教育大学付属池田小学校事件の宅間守元死刑囚に措置入院歴があったものの、そのしくみの不備が事件発生の一因であるという反省に立って国会審議されたものだという。だがその一方で、ここに収容された加害者たちは数年で退院し、以降、通院期間を経て社会復帰を目指すものであるという説明もあった。
上北沢の宿命
どこの街でもこんな説明を受けたらたいへんな騒ぎになるだろう。しかし、新井会長は冷静である。その理由は、この上北沢という地域の特殊性を、誰よりもよくわかっているからだ。
上北沢は、新宿を起点に郊外へ延びる私鉄、京王線の沿線にあたる。新宿から駅にして6つ。約8km、15分という場所にある。1丁目から5丁目までがあるが、そのうち2丁目のすべてが松沢病院。かなり広大な面積である。
松沢病院は1919年に上北沢に移転してきた。つまり大部分の住民よりも古い存在という側面がある。また、これまでに有名な重大事件の加害者がやってきている。
1981年に発生し、佐木隆三氏のドキュメンタリー小説にもなった深川通り魔事件の加害者、「ブリーフの悪魔」ことK氏。1982年に日航機を逆噴射し、墜落させてしまったK機長。自宅に放火して家政婦を殺(あや)めた映画会社元社長のO氏。
これらは、自慢ではないけれど古くからの住民なら誰でも知っていることで、街を語る上では格好のネタでもあった。
自分たちが生まれる以前から街の大部分を占める大病院である。医療観察病棟ができることも、新井会長は「ある意味で上北沢の宿命」と思っている。これまでも地域の店では、ある程度病気が回復した人を社会に適応させるために店員として雇い、単純労働のテストさせるシーンに出くわしていたし、ちょっとだけ普通の人とちがう態度をとる患者が、散歩する姿を見ることは日常茶飯事だった。京王線に飛び込んで自殺する患者がいても、いつものことだと思う人も多い。
つまり古くからの住民は、精神障害患者に慣れている。ただし、住民の転出入が多い都内住宅地、この宿命を新しい住民に押しつけることはできない。
「私のもとには、現在でも病院を脱走してきた精神障害患者が『奇声を上げている姿を見てびっくりした』とか、『抱きついてきたので怖い思いをした』といった手紙が寄せられています。こういった人たちのためにも、町内会としては反対運動をしないわけにはいかないのです」
反対運動の方向
こういった特殊な事情があって、新井会長はやみくもに座り込みをしたり、アジテートしたりするような反対運動をするつもりはないという。また、したとしても、国が動いている案件が簡単につくがえるとは思っていないそうだ。ただ、実現可能な大きく分けて2つの要望はぶつけたいそうだ。
- 脱走してきた加害者、あるいは通院中の加害者が地域で同様の犯罪をした場合の責任の所在をはっきりしてほしい
- 退院後に地域に住むことになった加害者を、民間のアパートへ1人ずつ住まわすのではなく、警察や監視する人たちの目の届くところにまとめてほしい
東京都病院経営本部の反応
この上北沢町会の要望に対して、相手方となる東京都の病院経営本部では、どう回答するのだろうか。病院経営本部の経営企画部副参事、松崎浩一さんにお会いした。
「責任の所在からご説明します。裁判においては、裁判官と精神科医(「精神保健審判員」)の合議で入院が決定します。その際、社会復帰調整官(精神保健福祉などの専門家)が、最初の審判から一貫して関与して処遇のコーディネートをします。入院中は医師、看護師とともに社会復帰調整官が生活環境の調整をし、6カ月ごとに裁判所に、入院継続確認をします。退院した後は原則として3年間、保護観察が行われます」
新井会長が求める責任の所在については、次のように述べた。
「入院中に無断離院(脱走)し、再犯した場合は病院の責任。退院させる許可は裁判所。退院後はもう立派な社会の一員となるわけですから、警察に頼るしかありません。退院後は精神障害者復帰施設、精神保健福祉センターや保健所、病院が連携して、温かく迎えていこうということになります」
現在でも松沢病院の正門横には交番があること、松沢病院のすべての出入り口には門番がいること、などをあげるいっぽうで、地域の不安に対して警察とのネットワークを考慮していくそうだが、具体的なプランは白紙だという。また、松沢病院は医師、看護師ともに通常の病院と比べて約2倍の職員がいるということも加えて説明してくれた。
もうひとつの要望である、退院後の住む人たちを隔離、監視してほしいという希望についても聞いた。
「退院後は、社会の一員であるというのがこの法律の考え方ですから、人権を侵害するようなことはできません」
人権を考慮すると、いかにもむずかしい問題だ。ただ、これを聞いて「病気が治って、すっかりまともな人になっているなら安心だ」という住民もいないだろう。
もうオープンまで時間は多くは残されていない。町内会、病院経営本部ともに、納得できる解決があるのだろうか。町内会では、今後の署名活動について今後も会議を催すことにし、病院経営本部はそれを受けて対応を決定するそうだ。