烏賀陽弘道コラム(9) 見えない音楽市場・Part1

 中指が、カクカクと動くようになった。生まれて初めての経験である。

 その症状をネットで検索すると、腱鞘炎らしいことが分かった。軽く拳を握った状態から、指を伸ばそうとすると、付け根の部分で1度ひっかかった後、勢いよく弾かれたように動くことから「バネ指」と称するらしい。

 エアードライバーを、使いはじめて約2週間が過ぎたころからの現象だ。

時給900円、交通費1日500円

 私が大阪府茨木市にある東芝家電製造株式会社(太田東芝町)に派遣されて、家庭用冷蔵庫を生産しているライン作業に従事したのが、2006年5月29日だった。

 5月の連休明けに、大手人材派遣会社クリスタル(2006年11月グッド・ウィルが買収)のグループ企業の株式会社クリスタル・サービス(現プレミア・サービス)茨木サテライトに、登録してから半月後に紹介された定番(派遣先の営業日に従事すること)の仕事だ。

 時給は900円で、交通費は1日500円。始業時間は朝8時。始業時刻に、ラジオ体操の音楽が工場内に流された後、朝礼があり、実際にラインが動くのは8時10分頃からだ。朝10時と午後3時にそれぞれ10分間の休憩があり、昼休みは12時10分から午後1時までの50分間だ。定時の終業は、午後4時45分で実働7時間45分になる。残業の場合は、定時終業後10分間の休憩を挟んで行われる。

 当時の従業員は約800人で、人材派遣会社が東芝からライン作業を請け負い、大型冷蔵庫を生産していた。冷蔵庫の組み立てを行うのはA・B・Cの3ラインである。

 私が配属されたのは、人材派遣会社クリスタルグループの中核をなす、株式会社コラボレート(現・株式会社ハイライン)と、その子会社株式会社シースタイルが受け持つA・Bのライン中の、Aラインだった。

 東芝の仕事を紹介された時、1週間ぐらいの仕事と聞いた。その際、解雇通知などの就業条件に関する説明はなかった。

「制服は、この中から適当に選んで」

 初日、私は7時50分頃に到着したが、他の1人が遅れたため午前8時30分頃まで待たされた。その後、勤務時間、仕事内容、制服の支給、食堂や売店など工場内施設の簡単な説明を受け、現場担当者に引き継がれて配属先が決められた。私は製造ラインに連れて行かれた。

 「制服は、この中から適当なものを選んでください」と言われ、洗濯はしてあるらしいが、段ボール箱の中に投げ込まれ、皺だらけのLサイズの半袖上着を1着と別の箱に入った帽子を選んだ。就業期間中は、毎週末に制服を自宅に持ち帰って洗濯した。ズボン、靴は自分の持ち物を使用した。軍手は、支給品で洗ってあるものを、各自が選んで使う。

 工場内には、エアコンの冷風がダクトを通して出ていた。各ラインごとにスポットエアコンが、2~3人に対し1つの割合ぐらいで配置されているが、作業者全員分はない。当然、古参の作業者が優先的に使用するため、新入りは1日中、汗をかきながら作業に当たることになる。

 人材派遣会社クリスタルは、同じグループの人材派遣会社コラボレートからの要請で、作業員を派遣していた。そして、コラボレートが直接雇用している作業員の賃金条件は、時給1000円、交通費は別途、月1万円だった。

 ライン作業で隣り合ったコラボレート所属の派遣社員Kの話で分かった。クリスタルからの派遣社員とコラボレートの派遣社員が、行う仕事内容は同じだ。しかし、コラボレート所属の派遣社員に比べると私の賃金は、時給で100円少ないことになる。コラボレートは、無料就職情報雑誌で募集していたらしいが、就業条件が長期(3カ月以上)となっていたようなので、スポット(不定期での就労)を条件に、仕事を探していた私にとっては対象外でもあった。

工場まで早足で徒歩20分

 自宅からの通勤手段は、阪急京都線を利用した。自宅からの最寄駅「正雀」から同工場の最寄駅「総持寺」までの料金は、180円(定期代1カ月6670円)。自宅から「正雀」までは、自転車で約10分。「総持寺」から工場までは、早足で徒歩約20分だ。

 東芝行きバスは、「総持寺」の手前の、「茨木市」駅から約10分間隔で運行していたので、バスを利用する手もあった。しかし、片道200円のため、派遣社員の利用者は少ない。電車を利用する工員の大半が、「総持寺」から徒歩で通った。

 もし交通費の負担を気にせず、自宅から公共交通機関を最大限に利用できたとすると、徒歩約5分のモノレール「摂津駅」を利用して、「南茨木」駅まで行き、そこで阪急京都線に乗り換え、「茨木市」で降り、バスで、東芝の工場前で下車する経路となる。

 「総持寺」~「摂津」の乗車料金は390円(定期代1カ月1万4700円)。「摂津」~「茨木市」の乗車料金は390円(定期代1カ月1万3780円)。このルートの交通費は、片道590円、往復1180円になる。

 クリスタルから支給される交通費は1日500円だから、上記の公共交通機関を最大限使うルートは採れない。500円の交通費で、月20日出勤すると、1万円となる。「正雀」から「総持寺」までの定期券(6670円)を購入すれば、支給される交通費だけで充分まかなえる計算になる。

 が、同程度の距離を通う工員のほとんどは、その都度、切符を購入して電車通勤していた。というのは、長く続けられる仕事かどうかを、数日働いた上で判断するからだ。定期の購入はどうしても後回しになる。

「今日1日働いたら……」

 私の場合、本業の様子をみながら働いてみて、1週間で辞めるつもりでいた。けれども本業の方は、しばらく動きだしそうもなかった。派遣会社クリスタルからの要望もあって作業を継続したが、毎日辞めることばかり考えていた。

 「今日1日働いたら、派遣会社に辞めることを告げよう」

 毎朝起きるたびに、繰り返し思った。毎日辞めることを考えていたら、定期券を購入する気はなくなる。

 大半の登録者が、給料の受取方法として日払いを選択しており、週に1回の割合で、給料を事務所に取りにいっていた。日払いは、月曜日、火曜日、木曜日、金曜日の午後3時~7時までに、事務所に受け取りにいくシステムになっていた。

 日払いを選択しているのは、主に学生、主婦、ダブルワーカーなど、他に主体となる仕事を持っている人たちが多いようだ。空いている時間を使って、スポットの仕事をこなすため、給料の受け取り方法として好都合なのが日払いだろう。

突然の解雇通知

 工場側が不要とみなした場合、仕事がなくなることがある。事実、私が働き始めて、約3週間後の6月20日に突然、解雇を通知された。

 始業前にクリスタル登録の派遣社員が集められ、今日で、東芝の仕事は終了だ、とクリスタル梅田サテライトに所属する社員から告げられた。

 前日、クリスタル茨木サテライトに、毎日、義務づけられている出勤(出発コール)と終業(終了コール)の電話連絡を入れた際、そうした話はなかった。

 梅田サテライトの社員と面識のなかった私は、説明した当人がクリスタルの社員であることを確認した上で、解雇の理由を尋ねた。詳しい説明はなかったが、コラボレートから依頼されていたクリスタルが、一方的に契約を切られたのが解雇の原因らしかった。説明にあたったクリスタルの社員2人が、困惑した顔で話した。後日、聞いたことだが、クリスタル側に対する契約破棄の通知も、当日だったらしい。

 始業時間15分ほど前に告げられた話であることから、クリスタル所属の派遣社員は、まだ出社していない者も数人いた。そのため、終業後にコラボレートの事務室内で再度説明する旨を告げられ、我々は仕事に取りかかった。

 その日の作業終了後、顔見知りの茨木サテライトの担当者の説明によると、クリスタルに所属している派遣社員は、本日付けで解雇されるという。クリスタルは他の仕事を斡旋するが、東芝での仕事継続希望者はクリスタルに替わって、コラボレートの出資会社で、派遣会社の株式会社シースタイルと雇用契約を交わした上で、東芝での仕事を継続させるというものだった。

 唐突な内容ながら、熟慮の時間は与えられず、明日の終業時間後までに返事をするよう即断を迫られた。

ライン変更

 結局、約20人いたクリスタル所属の派遣社員のうち、東芝の仕事を継続したのは4~5人だった。それ以外は、東芝の仕事を辞めて、クリスタルが斡旋する他の仕事に就くことを選択した。当初から辞める気でいた私は、日払い制度がないシースタイルで仕事を続ける理由がなかった。

 翌朝、辞めることを現場のリーダーに報告すると、彼はコラボレート所属だったため、クリスタル社員の解雇について何も知らされておらず、「唐突な話で困る」と言う。リーダーとはいえ、彼も我々と同じ派遣社員の立場にあることから、派遣会社内部の事情までは知らされていなかったらしい。

 好青年のリーダーは、すぐコラボレートの事務所に行き、シースタイルにも給料の旬払い制度(1日3000円を上限に、月末締め10日払いと、10日締め20日払い)があることを教えてくれ、東芝での仕事継続を要請された。

 私は、経済的理由からシースタイルと雇用契約を交わし、東芝での仕事を継続した。労働条件通知書兼就業条件明示書に記載された雇用条件は、時給1000円、通勤手当1カ月5000円。契約期間は6月21日~6月30日まで。更新または期間延長の可能性〈あり・なし〉の部分については「あり」がマルで囲まれていた。

 私が配属されたのはBライン。ライン作業で最初に担当させられた仕事は、ラインの中で最も体力を消耗する仕事だった。冷蔵庫本体最下段部分の引出し収納部に、カバーをはめ込み、ドライバーでネジ留めする作業だ。

 カバーをはめ込むのに、相当の力を要した。カバーを両手で持ち、はめ込み穴に合わせて、カバーを押し込むのだが、かなりの力を入れて押し込んでも大半のカバーがうまく嵌らない。カチッという音を立てて、嵌るのは10個のうち2~3個の割合だった。

「今日のにいちゃん、はずれやな」

 初日は、Cラインからの応援1人が、私に仕事を教える形で居た。午前中は2人で作業に当たり、私は、部品を手渡すなど補助的な仕事に回った。午後からは、交互に作業に当たったが、力を入れ過ぎて人差し指と中指の爪と指の間が、切れて出血してしまった。

 Cラインから応援にきていた、20歳代の金髪に染めた100キロはある肥満体の工員が、私の仕事ぶりを見て、副リーダーに「前に来てくれたにいちゃんはどないしたん。今日のは外れやな」と話していたのが聞こえ、自分が情けなかった。

 大汗をかきながら、やはり部品をうまくはめ込むことができないケースが多い金髪肥満体の彼の作業ぶりと、私の作業は同じようだったが、聞こえないふりをした。

 翌日、同じ仕事を覚悟していた私は、始業10分前にラインの前に立ち、開始と同時に1人で作業に取りかかった。すると、慣れたせいか、昨日よりスムーズに部品の取り付けが出来た。リーダーに声をかけられた。おだやかな口調で、作業場所の移動を告げられた私は、そこから7工程後の場所に連れて行かれた。

しばらく続けられそうだ

 私に与えられた新しい仕事は、床面に足場を組んでラインと同一の高さにある場所に立ち、エアードライバーを使って、部品をネジ止めする作業だった。「エアードライバーを使ったことはありますか」と尋ねるリーダーに、私は「ありません」と答えた。エアードライバーは、空気圧を利用して、先端部を高速で回転させるねじ回しだ。

 最初に与えられた仕事は、1種類のネジをエアードライバーを使い、5カ所止めることだ。30分ぐらいは作業者の後に立って、見学するように指示された。

 生まれて初めて手にした鉄製のエアードライバーは、ズシリと重かった。全体の印象としては、クリップ付きのボールペンを大きくしたような形状だ。エアードライバーは数種類あり、取り付けるネジによって使い分けられる。

 冷蔵室内の部品3種類のネジ止めを命じられた私は、どうやらエアードライバー担当者として合格点を得ることができたようだ。「これなら、楽だな、しばらく続けられそうだ」と思った。小さな自信となった。しかし、生産効率を追求するライン生産がそんな悠長な状態を長く放置するはずがなかった。